鎌倉時代から安土桃山時代まで当地を支配していた佐波氏歴代の当主を紹介します(参考文献:邑智町誌)
名前 | 代 | 年代 | 略歴 |
義連 | 初代 | 1,199 〜1,220 |
三善康信の一族で、父親が常陸国(千葉県)矢貝の地頭職であったと思われその四男であり善四郎を名乗る。正治元年、佐波郷地頭職として補任された三善康信の代官として下佐波の簗瀬に入り佐波姓を名乗る。その後高山に移り青杉・矢飼連山の間合いの可耕地を開墾し次第に山頂に上り矢飼ヶ城を築くことと成った。雲石国境の泉山(八幡山)に城を築き、出雲赤穴をはじめその周辺を勢力権に入れると共に、安濃・邇摩両群にも領地を拡大して行った。後半生は滝原の土居で過ごした。死後上佐波(沢谷)の弓山山麓の花谷寺に葬られたとされている。 |
清連 | 2代 | 1,220 〜1,268 |
初代義連の長男。簗瀬の土居に居住し、水長城・比丘尼城から青杉城へ掛けての防塁整備と土地開拓と共に、天津神社(簗瀬)の懐柔に当たった。また弟顕連と共に銅が丸鉱山の開発に当たった。死後火打ち谷(簗瀬)の陣床に葬られた。 |
顕連 | 3代 | 1,268 〜1,276 |
2代清連の弟。矢飼ヶ城山の稜線上の葉山に居住し、葉山地域平坦地の開拓そして矢飼ヶ城への通路を開いて周辺の防塁を整備した。兄清連と共に銅が丸鉱山の開発に当たり、それに要する木炭生産地として乙原から田水への集落を確保し、背後に広がる広大な山林地帯の経営に勤めた。墓石は葉山にあるそうだ。 |
暉連 | 4代 | 1,276 〜1,302 |
3代までに下佐波で地力をつけた佐波氏が、上佐波・江川上流域への活動を開始するための拠点となる登矢ヶ丸を築き、住まいを信喜へ移した。弘安の役に筑前まで出征し、帰国後石見海岸警備を担当した。熊見の多久正行氏宅裏山にある2基の古墓のうち1基が、暉連の墓ではないかと言われている。 |
之連(清政) | 5代 | 1、302 〜1,328 |
暉連の嫡男で父の死後家督を継ぎ、暉連によって拡大された領国の経営に当たり、その経済力の蓄積・人心収攬に成功し6代顕連が南北朝時代に入って華々しく活躍する基を作った。当時は八幡宮勧請ブームで千原八幡宮(木積八幡宮)・酒谷八幡宮は之連の新築によるものとの伝承がある。上川戸久西と熊見境の土居に居住していた(地理的に邇摩方面、赤名・谷・都賀方面、千原・粕渕両峡谷から三瓶方面など各方面への交通が便利)ようで死後、上川戸の畳岩に葬られた。下乙原の県道沿い左側に古墓1基があり、今は見る影も無く崩れている。 |
顕連(顕清) | 6代 | 1、328 〜1、350 |
南北朝時代に南朝方として名を成し『太平記』に青杉合戦が載った武将で、花の谷に有ったと言う錦見城城主という見方もされているが、出羽氏一族の富永氏の娘との婚姻により赤穴地内に領地を得、泉山城を整備して出雲方面への勢力拡大の拠点とした。5代之連についで領内を統一し青杉城戦で殉するまでの20年余りを登矢ヶ丸城山稜線上の熊見の土居に居住していたと思われる。弘元の乱で隠岐に流された後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆の船上山にて味方を募った時、三隅兼連等と共に馳せ付け足利尊氏・新田義貞等により鎌倉幕府が倒されると、名和長年・三隅兼連等と共に天皇の護衛をして京都に入った。その後足利尊氏による石見討伐の戦いの中、青杉合戦で高師泰に破れ青杉3城の鼓ヶ城で自決後、首は家臣により簗瀬の葉山に運ばれて埋葬され、その後墓地が熊見の土居近くに移されたと思われる。熊見の多久正行氏宅裏山にある古墓2基のうち1基が、それではないかと言われる。 |
実連 | 7代 | 1,350 〜1,379 |
青杉合戦で6代顕連が破れ降参した佐波家の所領を、『降参半分の法』という慣習から所領の確認を朝廷に願い出て承認を得て確保した。1358年赤穴庄地頭職となり、佐波郷・赤穴庄を領有することと成る。石見宮方の崩壊後、嫡男頼清に佐波郷を譲り佐波家総領を継がせ、次男常連に赤穴庄、三男に久保、四男に明塚を譲って引退する。死後浜原の南谷に葬られる。子孫に佐波華谷が居る。 |
幸連(頼清) | 8代 | 1,379 〜1,406 |
父実連引退後、佐波本領、分家赤穴・久保・明塚などの所領を管轄した。熊見の土居に居住した。浜原桂根八幡宮・九日市春日神社を勧請した。嫡子の無かった幸連は、赤穴地頭職と成り赤穴姓を名乗る弟常連の次男正連を跡継ぎとし引退する。死後、原の奥迫に葬られる。 |
正連 | 9代 | 1,406 〜1,416 |
8代幸連の弟常連の次男。8代幸連と共に熊見の土居に居住する。甥の赤穴家総領弘行と共に飛騨合戦に参加の後、戦功に対する論功行賞を不満として出家する。養父幸連の死後、嫡男元連(7歳)に家督を譲りまもなく死去する。この時点で佐波本家・分家赤穴家は共に常連(7代実連の次男)の孫が家督を継いだこととなり佐波騒動の起因となった。 |
元連 | 10代 | 1,416 〜1,472 |
熊見土居の城主、正連の嫡男。佐波騒動を従兄弟の赤穴弘行の協力で乗り切り騒動は落ち着いた。しかしそれ以後佐波本家に対する赤穴家の発言力が増大し赤穴家が本家となり佐波家が分家化した。このことが遠因と成り、赤穴家4代幸重(弘行の嫡男)の時佐波赤穴合戦が起き、佐波家総領として戦ったが大敗したのだが領地は安堵された。死後片山の瑞光寺に葬られる。 |
清連 | 井元、九日市城城主、佐波家9代正連の弟。佐波赤穴合戦で甥の元連達と赤穴勢と戦ったが大敗、熊見の土居と共に井元の居城を焼かれた。 | ||
重連 | 清連の嫡男。佐波赤穴合戦の最中、清連と共に退隠し、嫡男の亀若丸に家督を譲る。 | ||
秀連 | 11代 | 1,471 〜1,504 |
熊見土居の城主、次女は吉川経基の妻、孫は尼子経久の妻となる。15歳のとき応仁の乱に出陣している。君谷出羽氏と共に川本小笠原氏と対立して君谷方面で戦い、嫡子誠連に家督を譲った後熊見に隠居し没するまでの25年、休ヽ斎と称し風月を楽しんだようである。墓地は熊見(片山?)の丸山に有ると言われている。 |
誠連 | 12代 | 1,504 〜1,536 |
時に尼子氏と結びもしたが、尼子氏の石見侵入の危険を避けて、国境に近い熊見の土居を引き払い、前面に江川と言う自然の大堀を控え後ろに青杉城郡という要害を負う滝原の土居に移り、酒谷泉山城・熊見登矢ヶ丸城・野間氏永城を強化して尼子氏に対立すると共に、君谷の出羽氏と提携協力して、大森銀山を指向する川本小笠原氏の君谷侵攻と戦った。戦国騒乱の渦中に生きた誠連は、60歳前後で亡くなり滝原の亀甲山に葬られた。 |
隆連 | 13代 | 1,536 〜1,551 |
誠連の嫡男で滝原の土居に居住し滝原大歳神社を勧請した。毛利元就が、尼子・大内と並ぶ勢力となり、大内家老臣陶隆房が主家大内義隆を滅亡させるという大変な時期を生きた。最後は大内義隆の使者と共に津和野の吉見正頼に援軍を求めに帰る途中、山口の長門にて陶隆房に味方している町野高風(甥の隆秀の妻の父親)の軍と戦い戦死した。墓地は滝原の顕親寺ではなかったかと考えられている。 |
隆秀 | 14代 | 1,551 〜1,578 |
誠連の弟興連の嫡男で、父興連と共に粕渕竜願寺城に居住し、浜原八幡城(唐樋山城)を築き、隆連不在中は父と共に佐波領内をよく収め、隆連の没後その幼い娘と嫡男恵連を結婚させる事を前提として佐波宗家を継ぐ。毛利元就の一翼として小笠原氏と戦い、元就の防長芸備雲石六カ国統一をたすけ、別府合戦にも参加している。毛利織田合戦の後、豊臣秀吉の天下統一戦に参加し、毛利輝元の広島築城・移居に伴いその城下に嫡子恵連と共に住まいを移した。死後、可部三入の観音寺に葬られた。 |
恵連 | 15代 | 1,578 〜1,592 |
14代隆秀の嫡男。毛利軍の尼子富田城攻めに二十歳で参戦して以来、毛利・織田対決としての鳥取・岡山戦線に吉川元春軍に属する石見勢の中堅として活躍する。毛利三家(毛利・吉川・小早川)が豊臣秀吉に服属してその天下統一に重要な役割を演じるに至って、恵連もまた吉川元春に従って各地に転戦した。その後毛利輝元の広島城築城に伴い、知行地の佐波郷は代官(おそらく佐波一族)に任せ父隆秀と共に城下に移る。そして備後東城に一万石を領有して移封され、関が原の戦いの後毛利・吉川が防長二国に閉塞するに及び、毛利輝元居住の萩へと移った。この後佐波郷は佐波氏との関係を失い、直接浜田在番の繁沢元氏(吉川元春の次男)の支配下となった。 |